2008年06月12日
仲間
なんていうか、私は、住むところも、ライフスタイルも、その時々で、劇的に??変わってきているので、お友達や生活スタイルが、劇的に??変わってきているような気がする。
高校時代の仲間は、写真関係が多かった。当時、宮城では画期的な??「宮城県高校合同写真展」が初企画・初開催。宮城県内の高校・写真部員が集まって、仙台市内の確か「みどりや」という、駅前の老舗デパートの空きビルで、夏休みを利用しての展示会。参加校は、おぼろげな記憶で、30校くらい。
私は、当時、高校2年生。
中学時代から、「写真」が好きで、一眼レフを持ち、暗室作業をやっていた。当時写真部が盛んであった「仙高」に行こうかな〜と思ったりもしていた。が、「仙高」は、制服がなく、私服高校。母子家庭で貧乏であった私的に、「ん〜お金かかりそう〜」というのが、率直な気持ちだったような気がする。
で、一番近くて、制服もあって、男女共学の無難な??「泉高校」に進学。
私、大昔、かなり頭良かったみたいで??宮城県内でも、10台くらいに入っていて、担任にも、「一女〜」とか云われていたのだけれど。
何しろ、貧乏だったので、親のすねかじりで大学行くよりは、さっさと、社会に出て、自分で稼ぎたかった。
仙台の進学校って、当時、男女別に一高、二高、三高、一女、二女、三女と、別れていた。(今も、そうなのかな〜??)
で、仙台の北と南で、学区制になっていて、選べる高校が限られていたりしていた。(ちなみに私は、北学区だったので、女子校の進学校は、一女のみであった。)
当時、男子高校生の間では、頭の一女、顔の二女、体の三女〜と、云われていた。女の子からの男子校、一高、二高、三高の評価もまぁ、似たような感じであったけど。ああ、思い出すと懐かしい〜。(ちなみに、私は、二高びいきであった〜??)
話しを戻す。当時、設立8年目くらいの無難な新設校(泉高校)に入学した私は、入学当時は、上位ひとけたが、卒業する頃には、下位ひとけた〜くらいまでに成績が落ちていた〜。いかにも、私の人生らしい??
(出席日数が足りずに、卒業も危うく、卒業式当日は、ひどい二日酔、並びに大遅刻であった〜〜〜。)
で、当時の泉高は、写真部がなく、「写真同好会」のみ。ひなびた4畳くらいのプレハブの暗室兼部室が、学校の敷地内の隅っこに存在し、いんちき会員ばかり。彼らの目的は、暗室で、タバコ吸う事〜みたいなのりであった。
私は、当時、「女はタバコを吸うものではない〜」という強いポリシー??があったので、先輩達がもくもくと吸ってる中、狭い暗室内で、黙ってみてた。が、お陰で??制服は、かなりタバコ臭い。「豊島〜お前もタバコ吸ってるだろう〜」と、生物の「奥野(先生)」なんかに指摘されても、「断じて吸ってません〜」と、言い切っていた。だって、ホントに吸ってなかったんだよ〜。
そんな軟弱「泉高写真同好会」に、なにゆえに、「合同展」の話しが来たのかは、今となっては??だが、「写真」に関しては、かなり真剣だった私は、当然、積極的に参加。この写真展での繋がり(ただの不良、酒飲み集団??)が、その後の私の人生にもかなり大きな意味を持っているような気がする。多分、今も。
すでに10年くらい、音沙汰ないメンバーがほとんどだけど。(って、私が一番、音沙汰なし??)
今思っても、現在の私を形成するにあたって、かなり重要な時期であった。
その後、この合同展は、「OB・OG展」「女の子だけの写真展」と続いている。
また、いつか、やろうね。みんなが50歳くらいになった時。あれ・・・もうすぐ??
で、私は、その後いろいろあって、沖縄移住。
ガラスの世界に入ってからは、仲間は、みんな、「もの作りや」であった。
私に多大なるエネルギーと、その後の生き方の見本を教えてくれたガラス・陶芸・木工・織・染め・銀細工、それぞれの「先輩」方。
もともとの沖縄のローカル、日本から移り住んだ人々。みんな、何かをつくって、生業としている人たち。
そして、鎌倉からやってきた、ヨーナスの影響で、出逢った、おきなわんサーファー。
17歳の夏、合同写真展でのさまざまな出逢いは、私にとって、レモンの季節であった。
刺激的で、すべてが美しく甘酸っぱい時代。
そして、34歳。沖縄・サーフィン・Heaven & マルモ。
17歳の夏を彷彿させる、激動の時代。
山の隠れ家と、海の隠れ家。
それぞれに「仕事」があり、「愛」があり、「遊び」があった時代。
あれから、約10年。すでに私は、43歳の良い歳〜になってしまった。
が、最近、かなり元気である。
やり残してしまったことが、まだまだいっぱいある。
「今」の仲間も固まった。
仲間がいると、がんばれる。
一緒に同じ「目的」に向かっていること〜それが「仲間」。
8年前、大好きな沖縄を出る時感じたこと。
「沖縄」を繋げるために。
「沖縄」を伝えるために。
それが、私の「役目」と今、強く、感じる。
私に「生きる」意味を教えてくれた17歳の夏、そして、沖縄。
「よりどころ」があるから、怖くない。不安もない。
ちょっと忘れていたけど・・・ね。
たくさんの人に支えられて、やっと、思い出せたこと。
いずれ、今までの全てが繋がっていく「確かな」確信。
いつもそこにあった「仲間達」の笑顔。そして、今もそれぞれの「その土地」でがんばっている「みんなの笑顔」。
距離とか、時間とかじゃなく。
ちゃんと繋がる。
ちゃんと、その時の答えが解る。
それらに気づいた時、ああ、私には、まだまだ、やるべきこと、やらなくてはいけないことが、山ほどあることに、気づかされた。
ちょっと、逃げていた。
(でも、神様が与えてくれた、休暇と思って、ゆっくり休んでま〜す。)
いっぱい、休暇をとったから。もう大丈夫。
もうちょっとしたら、今までの100倍くらいの勢いで、活動再開しそうな、元プランクトン>??の私です〜。
☆ 予報通り、サイズアップ。インサイド・頭半〜。カメ・頭〜。なんで、今日、入らなかったのか、自分でも解らない。なんで、サーフィンしないの〜と、自分で自分に???な感じ。でも、ゆっくり、パンを焼いて、ゆっくり本を読んで、ゆっくり、庭の植物に声をかけて。だからこそ、見えてきた、明日。無理しないで、生きていくのが、やっぱり、大事みたい〜。
☆ PS2 ネット接続用の携帯電話機の調子が悪くて、ネット接続状況、かなり悪いここ数日。メール回答も、遅れ気味です。ごめんなさい〜。このブログも更新できることやら???です・・・。
高校時代の仲間は、写真関係が多かった。当時、宮城では画期的な??「宮城県高校合同写真展」が初企画・初開催。宮城県内の高校・写真部員が集まって、仙台市内の確か「みどりや」という、駅前の老舗デパートの空きビルで、夏休みを利用しての展示会。参加校は、おぼろげな記憶で、30校くらい。
私は、当時、高校2年生。
中学時代から、「写真」が好きで、一眼レフを持ち、暗室作業をやっていた。当時写真部が盛んであった「仙高」に行こうかな〜と思ったりもしていた。が、「仙高」は、制服がなく、私服高校。母子家庭で貧乏であった私的に、「ん〜お金かかりそう〜」というのが、率直な気持ちだったような気がする。
で、一番近くて、制服もあって、男女共学の無難な??「泉高校」に進学。
私、大昔、かなり頭良かったみたいで??宮城県内でも、10台くらいに入っていて、担任にも、「一女〜」とか云われていたのだけれど。
何しろ、貧乏だったので、親のすねかじりで大学行くよりは、さっさと、社会に出て、自分で稼ぎたかった。
仙台の進学校って、当時、男女別に一高、二高、三高、一女、二女、三女と、別れていた。(今も、そうなのかな〜??)
で、仙台の北と南で、学区制になっていて、選べる高校が限られていたりしていた。(ちなみに私は、北学区だったので、女子校の進学校は、一女のみであった。)
当時、男子高校生の間では、頭の一女、顔の二女、体の三女〜と、云われていた。女の子からの男子校、一高、二高、三高の評価もまぁ、似たような感じであったけど。ああ、思い出すと懐かしい〜。(ちなみに、私は、二高びいきであった〜??)
話しを戻す。当時、設立8年目くらいの無難な新設校(泉高校)に入学した私は、入学当時は、上位ひとけたが、卒業する頃には、下位ひとけた〜くらいまでに成績が落ちていた〜。いかにも、私の人生らしい??
(出席日数が足りずに、卒業も危うく、卒業式当日は、ひどい二日酔、並びに大遅刻であった〜〜〜。)
で、当時の泉高は、写真部がなく、「写真同好会」のみ。ひなびた4畳くらいのプレハブの暗室兼部室が、学校の敷地内の隅っこに存在し、いんちき会員ばかり。彼らの目的は、暗室で、タバコ吸う事〜みたいなのりであった。
私は、当時、「女はタバコを吸うものではない〜」という強いポリシー??があったので、先輩達がもくもくと吸ってる中、狭い暗室内で、黙ってみてた。が、お陰で??制服は、かなりタバコ臭い。「豊島〜お前もタバコ吸ってるだろう〜」と、生物の「奥野(先生)」なんかに指摘されても、「断じて吸ってません〜」と、言い切っていた。だって、ホントに吸ってなかったんだよ〜。
そんな軟弱「泉高写真同好会」に、なにゆえに、「合同展」の話しが来たのかは、今となっては??だが、「写真」に関しては、かなり真剣だった私は、当然、積極的に参加。この写真展での繋がり(ただの不良、酒飲み集団??)が、その後の私の人生にもかなり大きな意味を持っているような気がする。多分、今も。
すでに10年くらい、音沙汰ないメンバーがほとんどだけど。(って、私が一番、音沙汰なし??)
今思っても、現在の私を形成するにあたって、かなり重要な時期であった。
その後、この合同展は、「OB・OG展」「女の子だけの写真展」と続いている。
また、いつか、やろうね。みんなが50歳くらいになった時。あれ・・・もうすぐ??
で、私は、その後いろいろあって、沖縄移住。
ガラスの世界に入ってからは、仲間は、みんな、「もの作りや」であった。
私に多大なるエネルギーと、その後の生き方の見本を教えてくれたガラス・陶芸・木工・織・染め・銀細工、それぞれの「先輩」方。
もともとの沖縄のローカル、日本から移り住んだ人々。みんな、何かをつくって、生業としている人たち。
そして、鎌倉からやってきた、ヨーナスの影響で、出逢った、おきなわんサーファー。
17歳の夏、合同写真展でのさまざまな出逢いは、私にとって、レモンの季節であった。
刺激的で、すべてが美しく甘酸っぱい時代。
そして、34歳。沖縄・サーフィン・Heaven & マルモ。
17歳の夏を彷彿させる、激動の時代。
山の隠れ家と、海の隠れ家。
それぞれに「仕事」があり、「愛」があり、「遊び」があった時代。
あれから、約10年。すでに私は、43歳の良い歳〜になってしまった。
が、最近、かなり元気である。
やり残してしまったことが、まだまだいっぱいある。
「今」の仲間も固まった。
仲間がいると、がんばれる。
一緒に同じ「目的」に向かっていること〜それが「仲間」。
8年前、大好きな沖縄を出る時感じたこと。
「沖縄」を繋げるために。
「沖縄」を伝えるために。
それが、私の「役目」と今、強く、感じる。
私に「生きる」意味を教えてくれた17歳の夏、そして、沖縄。
「よりどころ」があるから、怖くない。不安もない。
ちょっと忘れていたけど・・・ね。
たくさんの人に支えられて、やっと、思い出せたこと。
いずれ、今までの全てが繋がっていく「確かな」確信。
いつもそこにあった「仲間達」の笑顔。そして、今もそれぞれの「その土地」でがんばっている「みんなの笑顔」。
距離とか、時間とかじゃなく。
ちゃんと繋がる。
ちゃんと、その時の答えが解る。
それらに気づいた時、ああ、私には、まだまだ、やるべきこと、やらなくてはいけないことが、山ほどあることに、気づかされた。
ちょっと、逃げていた。
(でも、神様が与えてくれた、休暇と思って、ゆっくり休んでま〜す。)
いっぱい、休暇をとったから。もう大丈夫。
もうちょっとしたら、今までの100倍くらいの勢いで、活動再開しそうな、元プランクトン>??の私です〜。
☆ 予報通り、サイズアップ。インサイド・頭半〜。カメ・頭〜。なんで、今日、入らなかったのか、自分でも解らない。なんで、サーフィンしないの〜と、自分で自分に???な感じ。でも、ゆっくり、パンを焼いて、ゆっくり本を読んで、ゆっくり、庭の植物に声をかけて。だからこそ、見えてきた、明日。無理しないで、生きていくのが、やっぱり、大事みたい〜。
☆ PS2 ネット接続用の携帯電話機の調子が悪くて、ネット接続状況、かなり悪いここ数日。メール回答も、遅れ気味です。ごめんなさい〜。このブログも更新できることやら???です・・・。
Posted by Ruri at 22:30
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