2007年05月07日
スリランカ・マジック

☆ スリランカ・ヒッカドゥア・ローカルサーファー、マドラ@ヒッカドゥアメインポイント。今日スリランカからメールで届いた最新の写真。
車が壊れ、カメラが壊れた上、さらにショックだったのが、携帯がウィルスに感染し全てのデーターを失ってしまったこと。(全ての電話番号とか)
1週間前くらいから、携帯がウィルス感染したみたいで、勝手にアドレスにある電話番号に普通のSMSよりも重いデーターを送り始めた。時々電波の都合で送れないSMSがあり、それで気づいた。プリペイド式なので、残高??をチェックすると、1日250円くらいが、そのジャンクSMS??を送り続けることで減っていた。
でも、GWで忙しい時期、フライト時刻の変更などの電話連絡がしばしば入ったので、そのままにし、2日くらい前に修理に出した。
で、帰ってきた携帯みたら、全てのデーターがなくなっていた。
これには、そうとうにショックで、泣けた。号泣??してるスタッフがあわてた。でも、涙が止まらなかった。
自分でもびっくりした。
携帯で撮った大事な写真が2枚あった。スリランカで撮ったローカル3名の写真。(私のスリランカの子供??)
ストレスでいっぱいの時とか、ちょっと心が疲れた時、寝る前にその写真を見ては、癒されて??いた。
(そんな大事な写真なら、ちゃんとマックに落としておけ〜って気もするけどね。でも、いつも携帯にあったから、ついつい〜。)
そして、彼らの電話番号を失ってしまったことが、本当にショックだった。
(まぁ、他にも大事な番号とかいっぱいなくなってしまって、それはそれで、またまたショックでもあるのだけれど〜。無精な私は、控えなども全くない〜。)
ロンボクに住んでから、日々の忙しさで、スリランカの友人と連絡をとることは、ほとんどなくなっていた。新年の挨拶??とかその程度。それでも、あの津波を共に体験し、その後復旧の5週間を共に過ごした時間は、私の人生を大きくかえた現実であり、やっぱり、一生忘れられない出来事。
今回、彼らの電話番号や写真を失い、号泣した自分に、改めて、あのヒッカドゥアでの時間がどれほど自分にとって、大きな時間だったかを思い知らされた。
あの時間があったからこそ、ローカルと共に暮らし、共に生活する素晴らしさを学び、今、ここでのグルプック・ローカルとの生活があることに改めて気づいた。
あの時間がなかったら、私は、ローカルを理解しようとする努力など知らずに、ツーリストとして、ただ、その時その時の楽しい時間を過ごす事にとどまったような気がする。
今朝、スリランカからSMSが届いた。
新年の挨拶以来??お互い連絡は途絶えたまま。
そして、もちろん、彼は、私が電話番号を失い、号泣していたことなど知らない。
私は、宗教を持っていない。
でも、人間の力ではどうにもならない自然の力、そして、想いは、ちゃんと通じ、嘘をついた人には、天罰があたる〜といったような「教え」を信じている。
もう、2年逢っていない。それでも、スリランカの子供に伝わったのである。
それは、お互いの心の奥深くに強い絆がまだ、存在しているからなんだと信じたい。
私が号泣し、スリランカに子供??があることを知った、グルプックの子供達にとって、他にも子供??があることにちょっと戸惑いがあるのを感じた。
今まで隠していた訳ではない。スリランカで作ったDVDなどもずいぶん前にみんなに見せていたし、スリランカで津波にあったことも、話した。
また、スリランカの子供達にも、現在、ここグルプックのローカルを支援し、大会などに参加させていることも伝えた。
嫉妬心の強いアジアの子供達にとって、「まま」がいっぱい子供を持っている??ことは、多分、あんまり気持ちの良いものではないとは思う。
でも、嘘は、つけない。
どちらも大事。そして、みんな愛すべき子供達。
いつかどこかで、彼らが共にサーフィンできる日を夢みている。
そして、彼らが、国籍や宗教、肌の色を越えて新しい友情関係を結んでくれることを心から夢みたりしている。
☆ 波ないよ〜。で、今日子供達とセガール。思ったほど風の影響もなく、なかなかいい波だったけど、カレントとおばけセットで、ダイブとパドル漬け〜。私は1本しか乗れなかった〜。とほほ。明日はスタッフ、ライダーとともに、エカスに行く予定。(ゲストがいない今のうち〜。明日からスエルアップの予報〜。)
2006年03月02日
津波後のヒッカドゥア

☆あんまり人になんか教えたりするのが得意ではない私。でも、彼女はとても熱心に日本語を学びたがり、その熱意に負けて?? 私もがんばって教えた。で、なんと1週間でひらがなを書けるようになった。びっくり〜。でも、だるまみたいなぞうさんみたいな不可思議なシンハラ文字を書けるスリランカ人には、ひらがななんてお手のもの〜かも。それにしても・・・日本語って教えるのホントに難しい。
自分でつくったDVD を久しぶりに見たせいで、津波後のいろんなシーンが鮮明によみがえってきた。
津波後、私は滞在していたホテル・インペリアルのオーナーの家にお世話になった。チャーミーの家は、ヒッカドゥアの山手にあって、津波の被害が全くなかった。
チャーミーやホテルのスタッフは、当時インペリアルに滞在していた私以外の2組の所在をとても心配し、津波後、彼等を夜中まで、探し歩いた。
結果、3階のイギリス人1人をその日のうちに発見。私の隣の部屋にいたイタリア人2人は、翌日発見し、チャーミーズ・ハウスに無事、連れて来た。
が、イタリア人二人は、非常に興奮し、なぜ、自分たちがこんな被害に合わなくてはいけないのか?? 一刻も早く、ここを脱出したい・・・と、チャーミーに訴えた。私には、彼等の憤りがあんまり、理解できなかった。だって、彼等だけが被害にあった訳ではない。むしろ、彼等は命も無事で、荷物も全て無事だったのだ。インペリアルは、建物こそほとんど無事だったけれど、一階にあったレストランや厨房の設備は、みんな海水で流され、めちゃくちゃになってるというのに・・・。どうして、そんな風に、チャーミーを責めることができるのだろう??
でも、チャーミーは、それでも、彼等のためにベストを尽くし、コロンボ行きの車を彼等の為に用意した。
彼等は、喜びいさんで、その日のうちにヒッカドゥアを後にした。
海岸沿いの道は、全て津波で破壊されていたので、内陸の道を通り、その道のりは、8時間とも10時間とも言われていた。
私は、彼等が去ったことを喜んだ。それもきっと、ヒッカドゥアの為になるだろう。一人でも多くの外人がヒッカドゥアを去れば、それはそれで、食料不足や宿泊所不足の解消になる。
既に、コロンボ行きのツーリスト用のバスが走り始めていた。3階のイギリス人も、バスの順番待ちのチケットを手に入れ、帰り支度を始めていた。
私は、どうしたらいいのか、ものすごく迷った。
でも、私は、サーフボードもあるし、何がなんでも、すぐに帰らなくちゃいけない理由もなかった。とりあえず、チャーミーの家に、幸運にもねぐらはあるし、チャーミー達の手伝いもある。
どうしても、帰らなくてはいけない人や、傷を負った人。そういう人達が優先的に帰国すべきと思い、もう少しヒッカドゥアに留まる事に決めた。
そして、彼等と共に、道路整備やインペリアルの復旧作業に励んだ。
まさか、スリランカで、土方仕事をするとは思わなかったけど。
でも、もともと体を動かすのは、好きな性分。
みんなで、軽いジョークを飛ばしながら、せっせとがれきの山を片付けていくのは、それはそれで悪くない気分。
津波直後は、みんな途方に暮れた。どうして、ブッダの国、スリランカがこんな目に合わなくてはいけないのか?? ブッダは自分たちを見捨てたのか??
でも、そんな中で、人々は、生きていく希望を捨てなかった。生き抜く意欲でいっぱいだった。ニュースは、人々が助け合う姿を放送し、彼等はそんなスリランカ人気質を誇り、そして、より被害の大きかった人々のために、力を合わせ、信じられない勢いで、復旧活動を続けた。(普段は、あんまり仕事熱心ではないのにね。)
ローカルと共に復旧作業を続ける外人の中に、日本人サーファーの姿もあった。スリランカに来て、2日目に津波にあって、後は、復旧作業。で、最後の一日だけ、サーフィンして、帰国ですよ〜と、笑っていた日本人の男の子。彼の爽やかな笑顔と、「トレーニングと思ってやってますよ〜」という一言は、一生忘れられないと思う。
そして、津波後の5週間を私は、ヒッカドゥアで過ごした。
ある程度、復旧した後は、ここに滞在して、ここでお金を使う事が、唯一私にできる援助かもしれない・・とも思った。
でも、それは、私自身の為だったように思える。
ヒッカドゥアを離れたくなかった。
もし、ここを離れてしまったら、忘れてしまう。安易な現実に流されて、みんなの存在をきっと忘れてしまう。
ここで、現実と立ち向かっているみんなのことを忘れていってしまう。
それが、一番辛かった。
そこにいたかった。みんなと一緒にその現実をかみしめていたかった。
でも、オーストラリアのビザも切れる。帰らなくてはいけない。
そして、きっと、もっと別の形で、私にできる復旧支援もあるだろう。
後ろ髪を引かれる思いで、ヒッカドゥアを後にした。
コロンボまでの約3時間の道のり。
涙が止まらなかった。それは、私にとって、今までの何よりも一番辛い別離だった。
2006年03月01日
後回しの事

☆ヒッカドゥア名物のココナッツ売りのおじさん。このキングココナッツ。朝一サーフィンの前に一個飲むと、昼まで元気にサーフィンできる、ものすごいエナジードリンク。
誰にでも、あると思うのだけれど。
どうしても後回しになっちゃって、気付くと1ヶ月とか、1年とかたっちゃってることって、結構あると思う。で、いつもいつも、心の中で、あぁ〜あれ、やんなきゃ〜と思いつつ・・・ずるずると時間ばかりが過ぎていく〜。
ようは、タイミング。
ふっとその気になると、ぱぱっと片付けられることも、ちょっとタイミングを逃すと、永遠と先送りになってしまう。
基本的にあんまり几帳面ではない私は、気がつくと、そういうことがてんこ盛りになっちゃう。
で、現時点で後回しになってることは、メール、手紙、お礼の品の発送等々で、多分10件くらい。
で、その中でもさらに後回しになっちゃうのは、日本語じゃないやつ。
英語でのメールのお返事とか、手紙は、ついつい先送り。
この間(と言っても去年の8月)、スリランカに津波後の様子を見に行った時、お世話になっていた、ホテルインペリアルのオーナーチャーミーと約束をした。
津波後の様子を撮影して10分くらいのムービーにし、DVD に焼き付けて、彼にプレゼントしたのだけれど、どうやら後半がうまく焼き付けられてなかったらしい。
もう一度、焼き直して送るよ〜と言ったままになってた。
ついでに、うちのポストカードとステッカーも、一緒に送ろうと思って、そのまま・・・。これは、クリスマスカード代わりのはずだった〜。
でも、今日、ちょっと大事な用事があって、原稿用紙5枚分くらいのものすご〜く長い英語のメールを書いたついでに、気分は、おっしゃ、まとめて、たまった英語の用事を片付けるぞ〜って感じ。
で、3ヶ月くらい前に焼き直した津波のDVD を一応、チェックのために、見てみた。
そしたら、涙が止まらなくなって困った。
津波3日後から、デジタルビデオカメラで、撮影しはじめたヒッカドゥアの様子。ものすごく興奮していたみたいで、画像はゆれゆれ。こんな映像、ムービーにするのは、恥ずかしいくらいなのだけれど。それでも、貴重な津波後の映像。そして、1年以上がすぎた今、全く別の土地で、それを眺めている自分。でも、心はあの時間へとするりとタイムスリップ。
そして、ヒッカドゥアの懐かしい友達のことで頭がいっぱいになる。
あの時、人生で一番重要な時間といえるような素晴らしい時を共にしたみんな。生きのびていくたくましさと、ものすごい生命力に満ちあふれていた空間。
あの時のあの空気、あの匂い、あの風は、一生忘れられないと思う。
せっかく、お片づけ気分で盛り上がっていたけれど、今度は、スリランカ気分でいっぱいになっちゃって、とてもじゃないけど、他のことする気になんなくなっちゃった。
やれやれ。こ〜んな感じで、どうも、お片づけ苦手なんだよな〜。
2006年02月27日
「サマハン」

☆お気に入りの歯磨き粉と「サマハン」
ここ数日、なんだかのどがいがらっぽいな〜と思っていたら、昨日、7度3分の微熱と、強いのどの痛み。飲み過ぎがたたって、風邪ひいたみたい。
こんな風邪の初期症状に一番なのが、スリランカのアーユルベーダの風邪薬「Samahan」。成分は全て、天然のハーブやスパイス。普通は一袋を150ccくらいのお湯に溶かして飲むのだが、スリランカの友人をまねて私は濃いめの2袋。
これを食事の後などに、ゆっくり味わいながら飲むと、軽い風邪だとだいたい一晩で治る。
で、さすが、サマハン、今日は、元気にサーフィン!!
本場のチャイやスパイスティーのようで、味覚的にも私には、かなり美味しい。値段は一袋5円くらい。
ローカルにも、ツーリストにも人気の風邪薬。スリランカに行った際には、ぜひ、お試し下され。
ついでに、おでかけ用に持ち歩いているこれまた、アーユルベーダの歯磨き粉。これは、ややマイルドで私にも大丈夫だが、他のブランドのものは、辛すぎて火ふきそうでした〜私。
スリランカには、普通のまちやぐぁ〜で、こーんな風に、アーユルベーダの石鹸とか、歯磨き粉とか、ローカル価格で売っていて、かなり楽しい。
インドネシアのジャムーとかも、もっといろいろ、勉強したいのだけれど・・・。
まぁ、ここまでたどりついたのだから、この先は、ゆっくりゆっくり〜。
さてさて、明日は、給料日。収支決算しなくちゃ〜。
2005年12月26日
あの日から今日で一年!!

Sana @ Main Point in Hikkaduwa
去年の今日、現地時間10時30分頃、あのインド洋大津波の第一波がスリランカ・ヒッカドゥアを直撃した。その場に居合わせた私にとって、多分一生忘れられない出来事。たいがいのことには動じないくらい、かなりたくましく育ってきたけれど、あの時の動揺やせまられる数々の決断に、価値観や人生観が大きく変わった出来事となった。
その後ヒッカドゥアで過ごした5週間は、私にとって、今も心の中で宝石のように輝いているスペシャルな時間。
被災後の混沌とした雰囲気の中。言葉もよく通じない未知の国で真っ先に不安になったのは、全てを失った人達による犯罪だった。しかし、そのような犯罪はほとんど起こらず、みんなで助け合い、協力しあって復旧に全力を尽くしていた。自分たちも被害にあったのに、より被害の大きかった人達を最優先に協力しあう姿。ヒッカドゥアのローカルサーファー達はいちはやく、さらに被害の大きかった東海岸に水や食料などの供給に向かったりもしていた。
正直言って、あの時のスリランカ人の働き様にはかなりびっくりした。
普段はメニューのオーダーさえかなり怪しい??いい加減??なくらい労働意欲に乏しい??人達。(ごめんねぇ。悪気はないんだけど・・・ホテルの部屋の掃除とかも3日に1回とかだったし・・・。まぁ、良く言えばのんびり・・・とも???)
被災後10日でかなりの数のホテルやレストランが再オープンした。みんな日の出から日没まで、毎日毎日がれきの山の後片付けに、一生懸命がんばっていた。
私も、お世話になっていたホテルの復旧にかなりがんばった。
まさか、スリランカでドカタするとは思わなかったけど。
でも、お陰でみんなと一緒にローカル・カレーが毎日食べれてかなり嬉しかった。ホントに美味しかったんだよなぁ。家庭のカレー。毎日3食カレーでも飽きなかったんだよなぁ。
今日は Boxing Day。オーストラリアでは昨日のクリスマスに引き続き祝日。ボクシング・デイ?? 聞き慣れない言葉だけれど、何やらクリスマスに大忙しだった郵便屋さんなどにご褒美と休息を与える日らしい。
いっぱいがんばったスリランカやその他の被災地の人々が、穏やかな気持ちでこの日を迎え、そして明るい未来を思える日であって欲しいと心から祈ります。
で、そういった被災地の人達への一番の支援は、観光客としてそこを訪れ外貨を落とすこと。なので、日本のみなさん、特にサーファーのみなさん。ヒッカドゥアは、今がベストシーズン。クリスタル・クリアーで熱帯魚がうじゃうじゃ泳いでるのが波に乗りながら丸見えなスーパーAフレームの波とクールなローカルがみなさまを手ぐすねひいて??待ってますので、よろしく〜〜〜。
2005年11月14日
つきぬぅかいしゃ、とぅかみっかぁ〜

13夜の月@Kuta Beach
今日は、設計士との打ち合わせがあったので、そのために、以前撮った写真とか、ビデオとか、眺めてた。
バリやスリランカの建築のデザインで、応用できそうなものがあるかな・・・と思って。
私が、デジタルカメラやビデオを使い出したのは、つい最近で、しかも、撮影してるのは、ほとんどがスリランカの友達ばかり。
彼らがバリに来た時のものだったり、私がスリランカにいたときのものだったり。
ロンボクに引っ越してきて以来、ゲストハウスのことで忙しく、それらをゆっくり見る時間はなかった。
ホントに、久しぶりに見る彼らの姿だった。
自分の気持ちの中では、スリランカのことは、精算できていたつもりだった。
でも、久しぶりにみる、写真やビデオの中のみんなの笑顔は、あまりにもリアルで、そして、遠い。
涙が止まらなくなった。
こんなにも心が引き裂かれるような感情を持つのは、本当に久しぶりのような気がする。
愛すべきものと離れていても、平気になったはずだったのに。
そして、理屈では、十分解っている。
私は、スリランカには、暮らせない・・・。
なんで自分がこんなに、スリランカに強い感情を抱くのか、正直自分でも解らない。
確かに、津波後、ヒッカドゥアで過ごした5週間は、今までの人生の価値観をくつがえすくらい、強烈な時間だった。
でも、それ以上の何か強いシグナルを感じる。
それは、私がスリランカを遠い思い出として忘れようとするたびに、送られてくるような気がする。
忘れちゃだめだよ。君の魂は、まだ、ここにあるんだよ・・・って。
今年の7月にスリランカを再訪した時、落としたまぶいを拾ってきたつもりだった。
中途半端だった気持ちを精算し、ロンボクでの生活に気持ちを切り替えたはずだったし、実際、そのことに十分、納得もしていた。
でも、やっぱり、私のまぶいは、まだ、ヒッカドゥアに落としたまんまなのかもしれない。
それとも、13夜の月の魔力が、私をちょっと、感傷的にしてるだけ???
2005年10月27日
津波 その2

通常の100メートルくらい海水が引き、初めてその姿を現した海底。
実は、その日の朝、6時30分頃、軽い揺れを感じて目を覚ました。
スリランカでは、バスやトラックが暴走し部屋が揺れる事がしばしばあった。
なのでまた、クレージーなバスが通り過ぎたのだろう・・とぼんやりと思った。
しかし、その揺れは、奇妙に長く、小刻みにいつまでも続いた。
昨夜はクリスマスで、遅くまで飲んでいたせいもあり、もう少し、寝ていたかったのだけれど、その奇妙な揺れで、すっかり目が覚めてしまった。
目の前では、綺麗なエーフレイムの波が割れていた。
前日から、日本人のサーファーが急に増え出した。
私が、津波の10分前に海から上がった時には、かなりの日本人を含む20名くらいのサーファーがまだ、海に入っていた。
数日前から、仲良くなったボディーボードのゆみちゃんも、津波を海の上で体験した一人だ。
「なんか、大きなセットが入ってきたなぁ・・・くらいにしか思わなかったよ。ずんって水面が急にあがって、体が持ち上げられる感じがして。で、岸を見たら、波が自分のゲスト・ハウスの部屋にぶち当たってた。ああ・・・私の部屋が・・・と、思った瞬間、すでに跡形も無く、部屋は崩れさっていたよ。」
ローカル・サーファーの指示で、海の中にいたみんなは、とりあえず少し沖に避難。みんなで海の上から、波が次々と建物を破壊していくのを、ただ、眺めていた・・・という。そして、海水が引き、波がおさまったところで、みんなで、岸に戻ってきたらしい。
津波は、2時間おきくらいに、2度、3度と続いた。
それは、波が大きい・・という感じではなく、膨大な量の海水が、どんどん押し寄せてきて、最後に海岸の建物などにぶち当たり、そこにあるものを破壊していく・・といった感じだった。
今まで夢中になって追い続けてきた、波。波の持つパワーは、サーフィンを通して知っているつもりだった。しかし、目の前のそれは、想像を絶するほどのエネルギーを帯びた巨大なモンスターのようだった。
ただただ、自然に対する畏敬の念のようなものを感じ、ただただ、呆然と目の前の出来事を眺めていることしかできなかった。
ホテルのスタッフコリンが、今朝の地震に気づいたか??と聞いてきた。そうか、やっぱりあれは、地震だったんだ・・・。
ってことは・・・これは、津波だ。どっかで、巨大な地震が起こって、津波が発生したんだ。
「コリン、これは、津波だよ。津波。」津波・・・英語でなんて言うんだろう???
携帯で、オーストラリアの友達にSMS を送った。「スリランカは、津波の被害を受けています。今私たちに必要なのは、正確な情報です。連絡下さい。」
直後に、バリに住むオージーの友達マットから、SMS が届いた。
「オーストラリアのママから、スマトラ沖で巨大な地震が起こったってSMS が届いたけど、スリランカは大丈夫???」
このマットからのSMSで、全てが判明した。日本人の私には、簡単に理解できたこの津波も、ローカルやヨーロッパからのツーリストには、何が起こったのか、上手く把握できないようだった。日本人であることにこの時、感謝した。そして、ホテルのスタッフに津波について説明した。
津波は、地震によって起こる事。津波が単独で起こる事はない。なので、今後の地震情報に注意すること・・・。でも、今後の地震情報なんて、果たしてスリランカに届くんだろうか????
その日の満潮は、午後6時頃だった。満潮と重なって、波が大きくなるかもしれないことなどを考慮し、ホテルのオーナー、チャーミーの家に避難することになった。チャーミーの家は、少し山手のジャングルの中にあり、朝の津波でも全く、被害がなかったという。
ホテルから、チャーミーの家まで、コリンと一緒に歩いていった。海沿いの道は崩壊していたので、山手の道を歩いた。その1時間程の道のりは、5時間にも6時間にも感じた。
誰かが誰かのものを盗んだらしく、それをつかまえようとして、何人かが輪になって叫んでいた。泣き叫ぶ女性。血を流しながら歩いている人。がれきの山。崩壊した家。倒れて道を塞いでいる壁。水浸しの道。コリンと一緒だったから良かったけれど、こんな道、怖くてとても一人では歩けないと思った。
やっとたどり着いたチャーミーの家は、静かなジャングルの中にあり、全てが崩壊し、カオスと化している海岸沿いとは、全くの別世界のようだった。
チャーミーは、落ち着くまで、この部屋を使っていいよと、かわいいゲスト・ルームを私に与えてくれた。本当にありがたかった。
その、長い長い一日の終わりにベットに倒れ込む。窓から美しい13夜の月が見えた。
たくさんのツーリストや家を失ったローカルが、山手の寺院や学校などの床で寝ていることを思うと、私はなんて、幸せなんだろう・・・と心から感謝し、そして深く安らかな眠りに落ちていった。
2005年10月26日
津波 その1

津波がビーチ前のホテルを襲う。マンボープレイスの二階からオージーが撮影。20メートルはあったビーチの姿はない。
ピピッと、携帯が鳴る。SMS(ショートメッセージ・注1) 受信の合図だ。
この時間だから、きっと、マドラから。
“Hello Ruri, Genki? Nami e? Very small in Hakkiduwa today!! Oyasumi!!”
スリランカの西海岸、ヒッカドゥアというサーフィンで有名な小さな町の、19歳のローカル・サーファー、マドラは、私にとって、息子のような存在。
週に一回くらい、こうして彼からメッセージが届く。
ああ、今ここにマドラがいたなら。
ああ、今すぐヒッカドゥアに飛んでいけたら。
スリランカの全てが恋しくて恋しくて、泣きそうになる。
スリランカは、最後まで、私の移住候補地だった。
もし、ロンボクと出逢わなかったら、スリランカに住んでいたかもしれない。
でも、私は、ここ、ロンボクを選んだ。
いろいろな条件から、ロンボクに決めた事には、後悔はないし、実際にスリランカに住むとなると、ものすごく大変なことは目に見えている。
あるいは、ポッキーがいなければ、半年ヒッカドゥアに暮らし、残りの半年は、バリやオーストラリアを旅する・・・という選択もあったかもしれない。
でも、人生にもしも・・・は存在しないのが私の方針。
去年の12月から、今年の2月上旬までの2ヶ月間をヒッカドゥアで過ごした。
そして、12月26日の朝10時30分。私は、あの津波に遭遇した。
ちょうど、10分前に海から上がり、のんびりお風呂に入っていたところだった。
ごーっという、強風のような音がした。でも、窓から見える空は、いつもと同じ透き通るようなブルー。天気が急変した様子はない。そして、停電。キャーと誰かが叫ぶ声。犬がほえる。何かがぶつかる音、ガラスが割れるような音。
でも、それでも、のんびりお風呂に入っていた。
サーフィンあとの、バスタイムは、私にとって、大切な時間。これだけは譲れない。
実のところ、スリランカでは、びっくりするようなことが、毎日起こっていたので、多少のことでは驚かなくなっていた。
でも、今まで聞いた事のないようなノイズ。人々がわめきあう声。さすがに、尋常ではない外の雰囲気に、タオルを体に巻いて、ベランダに出てみた。
なんだろう・・・これは。
まるで、洪水の後のようだった。
たくさんのヤシの木が倒れ、塀が崩れ、ゴミが散乱している。
隣の部屋のイタリア人が、すごい剣幕で、叫んでいる。
私「What’s going on??」
彼「Titanic wave!!」
私「What???」
彼「Titanic wave!!!!!!!」
タイタニック・ウェーブ??? なんじゃ、そりゃ。
スタッフの一人が、一階からあがってきた。
奇妙なことが、しょっちゅう起こるスリランカである。
私は、思わず、
「何これ?? スリランカではよくあるの???」
と聞いていた。
「まさか。こんなこと初めてだ。一体何が起こったのか、解らないよ。」
目の前の海水は、100メートル以上、引いていた。
干満の差がほとんどないヒッカドゥアでは、いままで見た事のない海底が、その姿をあらわにしていた。
一体、あれだけの海水は、どこにいってしまったんだろう。
そして、次が来る事は明らかだった。
三階にいた、イギリス人が、次が来るから、避難すべきだ!! といって、バックパックを背負って、あわただしくホテルから出て行った。
隣のイタリア人も、サーフボードをかかえて、駆け出して行った。
私も、何がなんだかよく解らなかったけれど、とりあえず、貴重品を持って逃げることにした。でも、貴重品って、何????
混乱していた。足が震えた。落ち着いて・・・落ち着いて・・・自分にいいきかせる。
大事なマック(ラップトップ)と、ビデオカメラをかばんに入れて、タンスの一番上に隠した。ここまでは、海水がこないように・・・と心から祈った。
財布とパスポートをバックパックに入れ、サーフボードをかかえて、通りに出た。
そこは、文字通り、カオスと化していた。
横倒しの車。がれきの山。シンハラ語というスリランカの言葉や英語、その他もろもろの言葉で、人々がそれぞれに何かわめきながら、さまよっている。
逃げるっていっても、一体どこへ???
道の中央に呆然と立ちすくむ事、多分、5分くらい。
そして、私は、ホテルへと戻った。
スタッフも、とりあえず、ホテルにいるのが安全だと言って、みんなで、一階にあった、コンピューターなどを三階に運んだ。
私の荷物もホテルの貴重品と一緒に、三階の6号室に詰め込む。
全室、6室の小さなホテル。サーフポイントの目の前にある、新しくこぎれいな三階建てのホテル・インペリアル。
その三階のバルコニーから、私は、2度3度と押し寄せる津波をただ、呆然と眺めていた。ただ、見てることしかできなかった・・・。 続く。
注1 日本やアメリカ以外の国の携帯は、SIMカード式。その国でSIMカードを購入すれば、世界中どこでも使える。なので、私は、バリで買った携帯をスリランカでも、オーストラリアでも使っていた。もちろん、ここ、ロンボクでも。そして、このSIMカード同士の携帯には、SMS と呼ばれるショートメッセージを世界中どこへでも、格安で、瞬時に送れる。すごく便利。でも、日本の友達とは、このSMSが使えない。オーストラリア帰りの友達と、いつもぶつぶつ文句を言ってます。





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